トーキョーライムのブログ🗼

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日記:湧き水のような、森林のような

今制作中のうたを微かに、頭に感じながら、スクリーンで透かすように、あの駅の書店で買った白いボールペンで日記を書いてみる。

つれづれなるままに、ひぐらし、すずりにむかいて。

この歌はちゃんと知らないけれど、きっと綺麗なんだと思う。学がないから、引け目を感じる。

でもきっと、文を書くのは好きだ。題名をつければ、形になると思った。形にしたものには、きっと意味があると思った。

だから、今、こうして日記を書くし、音楽だって、作り続けてきたのだ。

音楽を作り続けてきた。3年という短い期間ではあるが、作ってきた。

一瞬筆が止まるほどの感情がそこにはあるが、それもいいと思う。わからないけど。

わからないことばかりだ。自分以外の人、つまり他者がわからない。わからなくて当然だと言われるかもしれない。でも、「当然」と受け入れるだけではなく、考えてみたい。

恋人も友人も自分以外の他者で、感情の刃を向けられてしまうことはある。

私が弱いからだろうか。弱さの取り扱いについて、未だ答えが出ない。

でも、弱さの存在を「知ること」ができた。それだけでも、何かは変わるのかもしれない。

ずっと逃げてきた。今も逃げている。それは、自身の弱さを盾にすることばかりだ。他者が怖いから、メンタルがゴミだから、自分にはできない、できません、ごめんなさい、と。

「ごめんなさい」は、弱さを盾に、もしくは武器にするようなニュアンスに感じる。私の言う「ごめんなさい」はそうだ。

自分にとって「これをできないのは当たり前なんです」と、いつも正当化する。

そこがきっと、弱いままの理由な気がする。

全て、そうなのだろうか。全て、できないのは当たり前なのだろうか。でも、今日だってやらなきゃいけないことから逃げているのだ。あの人にはできて、私にはできないのは当たり前なんです、と。

変わりたいけど、怖い。自分の弱さで盾を作らなければ、いつかやられてしまう。

高校1年生の時から怖かったから、だから、盾を作るしかなかった。

今もずっと弱いままだ。弱い弱い、何にもなれない。

アイマスの「何度でも笑おう」が脳の広場でループしている。アイマスはすてき、きれい。安心する。Orangestarもきれい。そういった、綺麗なものたちに触れると安心する。

そういった具合で、いつも脳内会議の議題から目を背けるのが得意だ。大得意だ。だめだ、このままでは。

それでも、変わろうとすることをずっと諦めてしまう。諦めてばかりだ。心を救うことを最優先にして、それ以外は放ったらかしだ。

疲れてきた。今日も、まとまらなかった。明日も、そうなのだろう。

 

戻ってきた。やっぱりTwitterこわ、こわ。わからん。

わたしが悪いのかな、誰も悪くないけど、ごめんね。とかいうどうでもいい言葉しか浮かばなくて、こんなことを書いてる時でも、何者かになろうとする思考は止まらなくて。もうやめてくれ。何者にもなりたくないとか言ったくせに。

汚い承認欲求だけが、わたしを、わたしの作品を濁らせる。汚い欲とか、いらないのに。綺麗なものだけでいいのに。Twitterこわい。だめだね。怖くなっちゃったね、ごめんね。

Twitterに何もかもを呟くことをやめるとするならば、他に感情のはけ口が必要だ。それが無くなると、危ない。

だから、たとえ手が痛くなっても書き続けなければならない。Twitterが無くなったら死ぬ、代わりに、これが無くなったら死ぬから。

心がブレそうになったときは、Twitterを見るんじゃなくてM.Bさんの美しい美しいポスターを眺めよう。人が神棚や仏壇に祈り、心を鎮めるのと同じように。私が信じた、私だけの、綺麗なものたちを愛そう。綺麗なものを愛で、愛せば、きっと心は落ち着き、少しづつ綺麗になれる。

この間行った大きな公園の、木々や風に揺られるすすき、天高く伸びる一本松などは良かった。あとモルモット。あれらはとても純粋なんだ。ただ純粋だから、綺麗だと感じる。心、思考がないから、穢れがない。たとえ、木々や草花に思考があったとしても、私にははそれを知る術はないのだ。

だからこそ、美しいと思う。他にはなんだろう。美しいもの。

本当に、アスノヨゾラのイラストは綺麗だなぁ。美しいなぁ。素晴らしい。きれいだ。作者自身も、信仰しているものがあるから、こんなに洗練された作風になるのだろうか。

わたしも、宗教とかはよくわからないけど、揺るぎない、自分が綺麗と思ったものを信じたいな。

本当に、美しいなぁ。イヤホンと蝉時雨。これに出会わなければ、Orangestarを知らなければ、今の自分はないと断言できる。

そのくらい、すごい人なのだ。私にとってのOrangestarは。本当に、本当に、大好きだ。

未完成エイトビーツ、本当にいいアルバムだなぁ。SEASIDE SOLILOQUIESもいいんだけど、こっちにはこっちの良さがある。思い出補正でなくても、もし今20歳の自分がこのアルバムに出会ったとしても、必ず魅了されていたと思う。こんな自分でも、心から愛せるものがあってよかった。

あぁ、本当にいいなぁ。イヤホンと蝉時雨は。なんか、この感じ。 Twitterなんてなかった頃の、この部屋で1人でOrangestarの楽曲に聴き惚れていたという、この感情はいつでも変わらないなぁ。

本当に大好きだったものを、思い出せそうな気がする。私は、Orangestarが大好きだ。中学3年生の頃とか、楽しかったなぁ。受験勉強をしている時、CDプレイヤーでアスノヨゾラを聴いていたんだ。未来を、夢見ながら。未来に、憧れながら。

何度も言うけど、こうして自分の思考と2人っきりでいると本当に、好きな物への好きな気持ちを思い出せていい。何度だって言おう、Orangestarが大好きなのだ。本当に本当に好きだ。出会えてよかった。

こうして自分の気持ちを整理することで、自分自身が変われるような気がするんだ。

きっと変われたら、未来はもっときれいな自分になれる、気がする。そうして未来に思いを馳せ、願うことすら久しぶりだ。

今よりもっと素敵で、綺麗で、湧き水のような、森林のような、夏空に引かれる一筋のひこうき雲のように、ただ純粋に、そこにただあるように生きる美しいものになれるだろうか。

そう思うと、自然はつくづく美しい。20歳になって初めて自然の美しさに気がついた。彼らは、Orangestarの言葉を借りるなら「ただあるようにあるもの」もしくは「変わるように変わるもの」だ。だから、美しい。

「未完成タイムリミッター」これもいいなぁ。これもいい。やっぱり音楽っていいなぁ。音楽に殺されかけたけど、やっぱり素敵だ。素敵といえば、新曲の「霽れを待つ」もよかった。ミニマルさが効いていると思うんだ。同じ言葉、同じリズム感をくりかえしていて、あぁ、もう、本当に、文字を書くのを忘れてしまうくらい聴き惚れてしまうなぁ。なんて綺麗なんだ。

「私だけ生きていくの?」 そう思うこと、ある。でも、弱さを認めて、生きていかなくちゃ。朝焼け歌を歌ったり。DAYBREAK FRONTLINEとか。ことごとく、洗練してきているんだ、きっと彼自身が。

Henceforth、沢山聴いたなぁ。「お金よりいいでしょ?」って、私も、わたしも、そんな風に、そんな風になりたい。

「あぁ、これからはそうだな 何も求めずに生きていく」

こんなことが言えるように、私も。