トーキョーライムのブログ🗼

トーキョーライムのブログです

日記:今日のお散歩珍事件

2月11日 昼下がり

それは瞬きほどの一瞬で、見間違えかと思った。なぜなら、人も車通りも多い田舎とは言えない街にある小さな河川に、あんな青い鳥がいるわけない。反射的にそう判断したのだ。

でも一瞬、ほんの一瞬、雀ほどの大きさの鳥が羽ばたき、その羽は青くきらりと光っていた。

それが現実か妄想か、どちらにせよもう見ることは無いと思っていた。

しかし、たった今、それは目の前に現れた。

長くて重そうな、望遠レンズと言うんだっけ。そんな大層なカメラを持った中年ほどの男性が2人、いつものお散歩コースの小さな河川際にレンズを構えていた。また、こちらもお散歩の途中だと思われる夫婦が2人、同じくレンズの眼が集中する先を眺めていた。

これは何かあるに違いない、いつもいる白くて少し大きな鳥かな、なんて思ったが、現実は想像を上回る。そこにはあの青い鳥が1羽、葉も蕾もない冬の装いをした1本の木の枝に佇んでいた。

先日、一瞬通り過ぎただけの青い鳥が、見間違えでも妄想でもなく、ただそこにあったという事実に、マスクの下で笑みをこぼした。

田舎のような暖かさを感じることの無いこの街で、4、5人が立ち止まり、その視線の先には1羽の鳥というこのおかしな構図にも心が暖まった。小説みたいな話だが、つい先程本当に起きた話である。だからこうやって、すぐ側のベンチでiPhoneのメモに書き連ねているのだ。

あれはなんていう鳥なのだろうか。羽は止まっている時は緑で飛んでいる時は青かった。お腹は黄色寄りのオレンジ。検索したらそれはおそらくカワセミだったらしい。普段見慣れない野鳥なんて、こんな街には居ないと思っていた。20年生きていて初めて、生まれ育った街でカワセミと、カワセミを見守る人々を見た。

あぁ今日はいい日だ、と脳から素直に感情が発せられた。

お散歩コースの中間地点であるスーパーと上の階の百均に着いた。百均で必要なものを購入し、スーパーに降りお目当てのホワイト板チョコを探したが、なんと今はバレンタインシーズン。棚からチョコが消えていたのだ。私はバレンタイン用にチョコをつくる予定もなく、ただ板チョコを齧りたいだけなのに……。

仕方ないので近くのドラッグストアに寄ってみたら、なんとそこでも棚から板チョコだけがごっそり抜けている。世間の女の子はどれだけチョコを量産する気なんだ。とはいっても、ドラッグストアに板チョコ1枚のみ買いに来たという事実もちょっとあれなのに、何も買わないで帰るのも気まずい。ということで、じゃがりこサラダ味のLサイズを手に取った。苦肉の策だ。本当はホワイト板チョコが食べたいのに……。

悔し交じりにレジへ向かう途中、なんと、チョコレート特設コーナーを発見したのだ。そこにはお目当てのホワイト板チョコが!すかさず手に取ったが、脳内で一瞬迷いが発生した。それは手に持っているじゃがりこの事である。板チョコが買えないからという理由でじゃがりこを手に取ってしまったが、目的のものは見つかったのでじゃがりこを返すべきか。

時間にしては数秒の中、脳内で思考を掛けめぐらせた末、じゃがりこと板チョコを購入した。なんて、なんて罪なんだ。お財布は寒いのにじゃがりこと板チョコを買ってしまった!両手に花とはまさにこの事か。

大好きな2つのお菓子を持参したレジ袋に入れ、カワセミの事など頭から抜けたように鼻歌を歌いながら帰路に着いたのであった。

日記:北極星は輝きを放ち、旅人に北を示すだろう

2月10日 夜

なんだか、背伸びをしたくないのだ。

のだのだ言ってて、ハム太郎か。へけ。

ハム太郎の口癖が「へけ」だか「けへ」だかが本気でわからない、という話で友人と盛り上がったことがあったなぁ。勿論、今もどっちが正解だかわかっていない。くしくし。

ハム太郎の話などどうでもいいのだ。

そう、背伸びをしたくない。もっと簡単に言うと、上手く作ろうと思えば思うほど、いい作品って作れないのかなぁ、なんて。

いや、もちろん、上手くなりたいと思う過程で迷いを繰り返して上手くなっていくのだろうと思う。私も、イラストは中一の頃から練習して、楽しんだり苦しんだり沢山迷ってここまできた。そして今は自分が1番好きでいられる絵柄に、つい最近たどり着いた。

だから音楽も、今迷いまくってるけど、やっぱり一度ほんとうに自由に、ただ赴くままに作ってみたいなぁ。

ほんの、ほんの少しづつだけど、自分の音楽を作りたいという気持ちが少しづつ積もってきているような気がする。なんか、本当に色々と見失っていたかもしれない。

こんなに今、Orangestarが大好きだ大好きだって言えるようになったけど、ほんの数ヶ月前はそう思えなかった。

それは、とても嫉妬していたから。

彼の圧倒的センスとカリスマ性と人気、全部羨ましくて。別にいい音源を使っているわけではないし、いい編曲や優れたミックスをしている人なら他にもっといる。センスだけであんなに。彼にはできて自分には絶対できない。自分は何も持っていない、だから人気になれない、って。

でも、今立ち止まってみて気づいた。

やっぱりOrangestarは、私が知っているどんなアーティストよりも、美しい。美しく純粋な音楽だった。最近になってやっとそれに気がつけて、Orangestarが大好きだった今までを思い出した。

音の多さ、ミックスの上手さ、音源のクオリティ。音楽を楽しむ心を濁らせてくるこれらの煩わしさを、彼の曲は全て吹き飛ばした。

そこにあるのは、ただただ綺麗な歌だった。

売れるには、有名になるには、お金を貰うには、たくさんたくさん色々なことを気にしなければならない。たくさんたくさん気にしてきた。友人や先生から色々なことを教えて貰って、ただ音楽的にクオリティの高い優れた作品を目指した。

でも、私が初めに目指したのはそこじゃなかった。Orangestarに憧れ、Orangestarの背を追いかけたCalkyonに感化され、私もつられてその後に続いて走り出した。

「あの星を目指して進もうか あの光が照らす先へ 僕だって、僕だって高みを目指してやるんだよ」

処女作「水上アベニュー」のラスサビの歌詞。

あの星、そう、Orangestarを目指していた。

ある対談記事で2人が「高みを目指す」と言っていた。

今、こうして文を書いて、心の霧が晴れたように納得した。「原点に帰る」とは、まさしくこの事を言うんだろう。たった今、初心を思い出した。

また、目指してみよう。あの手の届かないような星を。私が彼の音楽を好きでいる限り、道しるべはそこにありつづけるのだ。

これからは、地図もコンパスも持たずに冒険ができるだろうか。少し不安も残るが、北極星は輝きを放ち、旅人に北を示すだろう。

日記:音楽だけじゃないから。

2月9日 朝

さぁ、今日も、Henceforthを流しながら、コーヒーを左手に、右手にボールペンを持ち、ノートの新しいページを開く。

朝から日記を書くなんて、相当暇に思われるかもしれない。事実、相当暇なのである。

昨晩、会話の中で自らの口から出た一言に驚かされる瞬間があった。それは、

「私には音楽だけじゃないから。」

これを言えたことが、どれだけすごいことか、すごいというか、めずらしいことか。

ずっと、自分には音楽だけしかないと思っていた。どん底だった高校生の自分を救ったのは、紛れもない作曲という行為であった。自身の気持ちを歌にすることで、救われ、それが何よりも楽しかった。

しかし、同時に「音楽以外は自分を救うことができない」と思っていた。自分を救えるのは自分の音楽だけで、他は全て、私を救うことはできない、と。

しかし、今は作曲に苦しめられている。やればやるほどわからなくなり、自分の心なんて救ってくれやしない。だから、今は自分の心を謳った作曲はしていない。

それをやめて、最近は何をしているのかといえば、こうして駄文を綴ったり、本を読んだり、自然のある公園に行ったり、毎日きっちり10時間睡眠を取ったりしている。

昨夜の自身の発言、「私には音楽だけじゃないから。」 これは、日々の生活が楽しくないと出ない台詞だろう。つまり、音楽以外の楽しいことに、初めて気がついたのだ。音楽以外も自身の心を救ってくれると、そう理解した、気がする。

見方によってはただのニート生活なのだが、私にとってこの音楽以外の生活をゆっくり過ごし楽しみを発見することは、思いのほか重要なことだったのかもしれない。

コロナ禍の中、膨大な時間の中で自分を見つめ直す事ができたのであれば、この空白の日々も無駄じゃなかったのかもしれない。

「虚無の夜も きっと無駄じゃなかった なんて 今は言えるんだ」

と、高校2年生の頃の私の歌詞を引用してみる。

さぁ、今日は何をしようか。なんせ毎日がノープランだ。

空がとても青い。快晴のMVに出てくる白Tの女の子も飛び跳ねながら手を叩きそうなほどの、気持ちの良い青空だ。じゃあ、今日は近所をお散歩してみよう。

音楽以外の楽しいことを、見つけに行こう。

日記:もしも鳥になれるなら、白鳥がいい

 

昨日の文、冷静に考えてエッセイではないだろ、てかエッセイってなんだ、読んだことないのに語るのはだめだぜ、と思ったので「日記」に改変しました。

 

2月7日 夜

「もしも鳥になれるなら、どんな鳥がいい?」

彼は勇ましい鷹がいいと言った。私は、美しく気高く大きな白鳥がいい。

白という色は、とてもいい。潔白なんて言葉もあるように、綺麗さ、純粋さを表していると思う。

そういえば、中学3年生の頃、「白時代」なんてものがあった。それは、私と友人2人だけのコミュニティで形成された憧れを具現化したものであり、文房具、アクセサリー、洋服、色々な物を白色に新調し、新たな自分に変わろうとする行いだった。それは本当に、本当に、何物にも変え難いほど美しく、希望に満ち溢れたキラキラの期間だった。

 

2月8日 昼

じゃがりこ食べたいなー。じゃがりこ新作がなんとかというハッシュタグを見てコンビニにでも行って買ってこようかという思考は、確実にCalbee社の手のひらの上である。それでもわたしは今じゃがりこが食べたい。サラダとたらこ?が好きだ。

阪急電車読んだ。おもしろかった~~~。今まであまり文学に触れてこなかったけど、有川浩作品は好きで、3作くらいしか読んでないけど、これが4作目。心がホワホワっとする作品だったな。こういう大きな展開がないものを面白かった~~と思わせられるのすごいなぁ。素敵だ~。つぎは植物図鑑を読みたいな。本はね、新刊じゃないと読まないっていうか、借りてきた本は読むのが億劫になっちゃうので、新品のを買いたい。返すのめんどくさいしね。

 

2月8日 夜

「変わりたい」 漠然とそう思った。

でも、何を、どう変えたいんだろう。自分の中のなにを変えれば、もっとより良い方向へと変わるんだろう。

まず、1番に変えたいのは己の弱さだ。私はメンタルが弱い。元々、女の子の身体というものは生理前や生理中になると体や心に不調をきたすものだが、私はそれがメンタルに集中してやってくる。昼夜問わず毎日泣いてしまう日が4、5日続いてしまう。

心の不調が来るのはある程度仕方のないことだとは思うが、その心の脆さを、どこかしら変えることはできないだろうか。

心の弱さで言えば、人が怖くなるのもいい加減どうにかしたい。でも、どうすればいいかわからない。怖いというのは、つまり、自分を守ろうとする気持ち。これを治すための方法なんてあるんだろうか。

「わからない」って言葉を、毎日書いてる。

本当にこれは言い訳でしかないが、能動的に外に出るのを1年間も規制されているおかしな世の中になってしまったのだ。自ら何かをしようという気持ちが失せてしまってもおかしくはない。

環境は、世界は変わってしまったのだ。

私は、どうしたらいいんだろう。大好きだった創作、自分の想いをめいっぱいに込めた音楽も、今は作る気になれない。

毎日を消費して、毎日が消えていく。このまま3年生になってしまうらしい。とても、やるせない。

未来は、今日も見えない。

 

 

日記:湧き水のような、森林のような

今制作中のうたを微かに、頭に感じながら、スクリーンで透かすように、あの駅の書店で買った白いボールペンで日記を書いてみる。

つれづれなるままに、ひぐらし、すずりにむかいて。

この歌はちゃんと知らないけれど、きっと綺麗なんだと思う。学がないから、引け目を感じる。

でもきっと、文を書くのは好きだ。題名をつければ、形になると思った。形にしたものには、きっと意味があると思った。

だから、今、こうして日記を書くし、音楽だって、作り続けてきたのだ。

音楽を作り続けてきた。3年という短い期間ではあるが、作ってきた。

一瞬筆が止まるほどの感情がそこにはあるが、それもいいと思う。わからないけど。

わからないことばかりだ。自分以外の人、つまり他者がわからない。わからなくて当然だと言われるかもしれない。でも、「当然」と受け入れるだけではなく、考えてみたい。

恋人も友人も自分以外の他者で、感情の刃を向けられてしまうことはある。

私が弱いからだろうか。弱さの取り扱いについて、未だ答えが出ない。

でも、弱さの存在を「知ること」ができた。それだけでも、何かは変わるのかもしれない。

ずっと逃げてきた。今も逃げている。それは、自身の弱さを盾にすることばかりだ。他者が怖いから、メンタルがゴミだから、自分にはできない、できません、ごめんなさい、と。

「ごめんなさい」は、弱さを盾に、もしくは武器にするようなニュアンスに感じる。私の言う「ごめんなさい」はそうだ。

自分にとって「これをできないのは当たり前なんです」と、いつも正当化する。

そこがきっと、弱いままの理由な気がする。

全て、そうなのだろうか。全て、できないのは当たり前なのだろうか。でも、今日だってやらなきゃいけないことから逃げているのだ。あの人にはできて、私にはできないのは当たり前なんです、と。

変わりたいけど、怖い。自分の弱さで盾を作らなければ、いつかやられてしまう。

高校1年生の時から怖かったから、だから、盾を作るしかなかった。

今もずっと弱いままだ。弱い弱い、何にもなれない。

アイマスの「何度でも笑おう」が脳の広場でループしている。アイマスはすてき、きれい。安心する。Orangestarもきれい。そういった、綺麗なものたちに触れると安心する。

そういった具合で、いつも脳内会議の議題から目を背けるのが得意だ。大得意だ。だめだ、このままでは。

それでも、変わろうとすることをずっと諦めてしまう。諦めてばかりだ。心を救うことを最優先にして、それ以外は放ったらかしだ。

疲れてきた。今日も、まとまらなかった。明日も、そうなのだろう。

 

戻ってきた。やっぱりTwitterこわ、こわ。わからん。

わたしが悪いのかな、誰も悪くないけど、ごめんね。とかいうどうでもいい言葉しか浮かばなくて、こんなことを書いてる時でも、何者かになろうとする思考は止まらなくて。もうやめてくれ。何者にもなりたくないとか言ったくせに。

汚い承認欲求だけが、わたしを、わたしの作品を濁らせる。汚い欲とか、いらないのに。綺麗なものだけでいいのに。Twitterこわい。だめだね。怖くなっちゃったね、ごめんね。

Twitterに何もかもを呟くことをやめるとするならば、他に感情のはけ口が必要だ。それが無くなると、危ない。

だから、たとえ手が痛くなっても書き続けなければならない。Twitterが無くなったら死ぬ、代わりに、これが無くなったら死ぬから。

心がブレそうになったときは、Twitterを見るんじゃなくてM.Bさんの美しい美しいポスターを眺めよう。人が神棚や仏壇に祈り、心を鎮めるのと同じように。私が信じた、私だけの、綺麗なものたちを愛そう。綺麗なものを愛で、愛せば、きっと心は落ち着き、少しづつ綺麗になれる。

この間行った大きな公園の、木々や風に揺られるすすき、天高く伸びる一本松などは良かった。あとモルモット。あれらはとても純粋なんだ。ただ純粋だから、綺麗だと感じる。心、思考がないから、穢れがない。たとえ、木々や草花に思考があったとしても、私にははそれを知る術はないのだ。

だからこそ、美しいと思う。他にはなんだろう。美しいもの。

本当に、アスノヨゾラのイラストは綺麗だなぁ。美しいなぁ。素晴らしい。きれいだ。作者自身も、信仰しているものがあるから、こんなに洗練された作風になるのだろうか。

わたしも、宗教とかはよくわからないけど、揺るぎない、自分が綺麗と思ったものを信じたいな。

本当に、美しいなぁ。イヤホンと蝉時雨。これに出会わなければ、Orangestarを知らなければ、今の自分はないと断言できる。

そのくらい、すごい人なのだ。私にとってのOrangestarは。本当に、本当に、大好きだ。

未完成エイトビーツ、本当にいいアルバムだなぁ。SEASIDE SOLILOQUIESもいいんだけど、こっちにはこっちの良さがある。思い出補正でなくても、もし今20歳の自分がこのアルバムに出会ったとしても、必ず魅了されていたと思う。こんな自分でも、心から愛せるものがあってよかった。

あぁ、本当にいいなぁ。イヤホンと蝉時雨は。なんか、この感じ。 Twitterなんてなかった頃の、この部屋で1人でOrangestarの楽曲に聴き惚れていたという、この感情はいつでも変わらないなぁ。

本当に大好きだったものを、思い出せそうな気がする。私は、Orangestarが大好きだ。中学3年生の頃とか、楽しかったなぁ。受験勉強をしている時、CDプレイヤーでアスノヨゾラを聴いていたんだ。未来を、夢見ながら。未来に、憧れながら。

何度も言うけど、こうして自分の思考と2人っきりでいると本当に、好きな物への好きな気持ちを思い出せていい。何度だって言おう、Orangestarが大好きなのだ。本当に本当に好きだ。出会えてよかった。

こうして自分の気持ちを整理することで、自分自身が変われるような気がするんだ。

きっと変われたら、未来はもっときれいな自分になれる、気がする。そうして未来に思いを馳せ、願うことすら久しぶりだ。

今よりもっと素敵で、綺麗で、湧き水のような、森林のような、夏空に引かれる一筋のひこうき雲のように、ただ純粋に、そこにただあるように生きる美しいものになれるだろうか。

そう思うと、自然はつくづく美しい。20歳になって初めて自然の美しさに気がついた。彼らは、Orangestarの言葉を借りるなら「ただあるようにあるもの」もしくは「変わるように変わるもの」だ。だから、美しい。

「未完成タイムリミッター」これもいいなぁ。これもいい。やっぱり音楽っていいなぁ。音楽に殺されかけたけど、やっぱり素敵だ。素敵といえば、新曲の「霽れを待つ」もよかった。ミニマルさが効いていると思うんだ。同じ言葉、同じリズム感をくりかえしていて、あぁ、もう、本当に、文字を書くのを忘れてしまうくらい聴き惚れてしまうなぁ。なんて綺麗なんだ。

「私だけ生きていくの?」 そう思うこと、ある。でも、弱さを認めて、生きていかなくちゃ。朝焼け歌を歌ったり。DAYBREAK FRONTLINEとか。ことごとく、洗練してきているんだ、きっと彼自身が。

Henceforth、沢山聴いたなぁ。「お金よりいいでしょ?」って、私も、わたしも、そんな風に、そんな風になりたい。

「あぁ、これからはそうだな 何も求めずに生きていく」

こんなことが言えるように、私も。

何者にもなりたくない

 

最近の口癖です。

何者にもなりたくないというのは、つまり、以前は何者かにかなりたかったということです。

ずっとそうでした。トーキョーライムという覚えられやすそうな名前をつけた高校生の頃から、ずっと何者かになりたかったんです。

有名になって、自身をコンテンツ化して、たくさんの人に知ってもらいたかった。

でも今は、誰にも知ってもらいたくありません。

作曲を上手くなろうとすること、再生数を稼ごうとすること、SNSでセルフプロデュースを頑張ること、全部疲れました。

疲れると、創作が楽しくなくなり、自身の作品を愛せなくなります。

楽しくない創作、愛のない創作に意味はありません。

創作が愛せなくなるくらいなら人生に意味は無いので、もう上手くなりたくないし有名にもなりたくないです。

トーキョーライムという自意識がいっぱい詰まった名前が嫌になります。

このブログも、「将来何者かになった時に見返して、苦労したなぁと思い返したい」という理由で始めたものなので、嫌になります。

インターネットのみんなは、何者かになろうと頑張ってて偉いです。

私には無理でした。

音楽を作るのはやめません。しかしこれからは、誰にも見られない所でひとりコソコソとやるにはどうしたらいいかと考えると思います。

元々、綺麗な音楽が好きです。純粋なプラスの気持ちを歌にしたいのです。ずっとそうしてきました。

自意識や承認欲求はセルフプロデュースにおいて大切かもしれません。ですが、自分の創作物に似つかわしくない気がします。そう言えるほど綺麗なものは作れてないかもしれないですが。

 

いつか、また、自分自身が愛せるような透き通った歌を作れるように、今は何者にもなりたくないです。

 

Twitterについて

トーキョーライムです。

 

8月15日に、Twitterからアカウントをロックされて以来、使用できない状況が続いています。

 

異議申し立ては行いましたが返信も来ず……。

いつ解除されるか検討がつかない状況です。

 

恐らく、TwitterのURLからこのブログを読んでくださった方が大半だと思います。

この言葉がトーキョーライムを知ってくださっている方々に届くかはわかりませんが、私はめちゃくちゃ元気です!

 

こんな状況下ですが、本日新曲を投稿します!

今まで通りTwitterで宣伝はできませんが、YouTubeニコニコ動画にアップしますので、見て頂けたら嬉しいです。

 

よろしくお願いします!

 

8/31 11:40 追記

 

サブ垢作りました!

@tokyoraimsubです。よろしくお願いします🙇‍♂️